all along

言葉を綴りたい

真夜中のつぶやき

 才能や実力とは全く異なる場所で凄まじく光っている圧倒的な存在感に嫉妬している日々。
 輝きと無縁であるならば、才能を持たないのであれば、せめて実力を得るべく努力をしなければならないのに、焦燥感がそれを許さない。
 非常に怠惰である。
 自信を持つためには今書いているものを完成させなければならないと仲間は言う。
 ずいぶん長い事ひとつの世界に身を潜めている。健全な人々の心に寄り添うだけの、不健全な行為に過ぎない。

 思い描いているストーリーがあるのに、上手く言語化できない。
 そもそもストーリーの組み立てる方法もままならないのに、見切り発車してしまった開始ボタンは、もう覆す事も許されない。誰よりも、自分自身に。
 どこかで慢心していたのかもしれない。ひとつずつ片付けてこられたという過去だけにしがみついて、結局何も成長できていないままだ。

 一歩進んで、一歩後退しても再び前進できるのは、これまで頂いたメッセージがあるからだ。
 かれこれもう二週間も悩み続けていて、登場人物達と一緒に路頭に迷い込みそうになったけれど、読者さんから頂いたメッセージに救われ、一つの出口への光が見えた。
 非常にありがたいことに、情景描写が好きだというお言葉をいただくことが多い。
 何の力も持たない私に残された最後の砦だと、それを意識してキーボードを叩いた事で、私は今こうして再び舵を取る事ができた。

 こんなに幸せな事は他にない。
 ありがとう。ありがとう。少しでも前に進んで、少しでも成長して、また戻ってくるから、待っていて。
 見ていて。

エッセイを書き始めました

ひょんなきっかけから、エッセイを書き始めました。
NOVEL DAYS さんにて公開中。
https://novel.daysneo.com/works/3c6e9a1766b9adc38f37aeffac815822.html

 

まさか自分がエッセイを公開するなんて思いもしなかったけれど、このブログやインスタグラムやスマホのローカルメモに残した言葉を使いながら、形に残しました。
「Cry & Fight」というタイトルは三浦大知さんの曲から頂いています。

 

自分の感情に向き合うには言葉が必要で、
言葉をつづるためには自分に向き合わなければならない。
そのループの繰り返し。
エッセイはまだ完成していないけれど、今から楽しみ。
今後の私への糧になりますように。

1人でユニバ に行った話(1年前の記録を再稿)

(初出: 2020/2/22 二次小説サイト)

 

  そもそも30代も後半に差し掛かろうとする独身女が一人でユニバとはなんぞやと。

 しかしいざ行ってみると、驚くほど通常運転な自分がいて、ああ私はいつもこうやってマイペースに暮らしているんだと唐突に自分探しの解答を得たような気分になり、妙な充実感を持って帰宅したのが昨日の話だ。

 ただ協調性がない事を再確認しただけの、一日がかりの作業。高速バスにまで乗って私はいったい何をしたかったんだ。

 だけど、すごく楽しかった。

 

 

 

 今だから言える話なのだが、最後に(二次小説サイト掲載作品)を更新した日の私の気持ちはぐちゃぐちゃで、いずれは下げようと思っていたサイトの拍手もすぐさまに撤去し、本当に本格的にサイトから距離を置きたくなるような精神状況だった。

 トリガーは、2019年11月24日に飛び込んできた訃報だ。

 翌日の夜は、様々な嫌な感情に溺れてわんわんと泣き続け、気づけば朝になっていた。ほとんど寝る事もないまま仕事をしていた。協調性がないどころか、社会人としてもどうなのか。

 特別その方のファンというわけではないけれど、自分よりも若い方が自ら死を選ぶというその衝動に引っ張られて、その苦しみがどれだけだったのか、私には分からない。理解できる日はきっと永久にやってこない。

 その日、拍手を撤去したのと同時に、頂いたコメントを再度読ませて頂いて、優しさに触れて、この世界にはそういう温もりがあるんだよっていうことを教えてもらったようで、それでも現実的にどうしようもないことだらけで、私は未熟で、きっと世の中が冷たさだけで成り立っていたらこんな風に泣いたりはしない。

 優しさがあるから世界は残酷だ。

 だけどその温度に救われるから生きていける。

 


 時々投げかけられる誉め言葉すら素直に受け取れなくて、たぶん私はそう思われるように行動しているだけの人間で、それを上手に生きていると呼んでしまったら、本当の意味で人に寄り添える日は来ないと思う。

 そうでなくても協調性のない人間が、このままではいけないのだと頭の中で警報を鳴らすのだけど、未だに避難経路を見つけられないまま、中二病を引きずったまま、唐突にバスに飛び乗って一人でどこかに出かけたりする日がまた来るのかもしれない。

左手が荒れた

雪が降った先週からすこぶる調子が悪い。
今年初の雪かきをした朝から左手首が痛い。筋が痛い。ちゃんと筋肉がないから無駄に筋を痛める。自業自得である。

 

可能な限り眠っていたいと思う。
心身の疲れはダイレクトに響く。時間の許す限り活字に浸っていたいと思う。睡眠も読書も、私にとっては現実逃避の一種にすぎない、至福の時間だ、貪欲に求める場所を間違っている。

左手が荒れた。
がさがさとした皮膚は赤みを帯び、ぶつぶつと湿疹ができ始めた。痛痒い。ドラッグストアで買った日本薬局方の白色ワセリン(チューブのやつ)を塗ってちょっと落ち着いた。それでも赤みが増していく皮膚が、痒みを訴える。あーステロイドを塗るしかないのか、と悟り、薬箱を探す。ゲンタシンも配合されたステロイドだけど、まぁいいや。自己責任。
ネットで調べたら、手湿疹なるものがあると知る。
しかし極力台所仕事をしない私がなるとは、ひ弱である。ひたすらハンドクリームで誤魔化していたツケなのか。こんなところにも不調が出るとは、心身は正直だ。

 

最近、詩集を少しずつ買っている。作者は固定していない。
言葉と言葉の化学反応、相互作用に生み出されるそれらは相乗効果を伴って、蒸発して私を包む。結晶化して私を刺す。
吐き出した感嘆は、明日への活力となる。

 

言葉をつづる事に疲弊する事は日常茶飯事で、
プライベートで極力人と会わない生活を続けていたら、ますます口下手になってしまった。怠慢の結果の表れだ。
なんでこんなことをしているのだろうと、ノートパソコンを目の前に頭を抱えながら、それでも自分の心が解放されたのを見計らって、感情を昇華させていく作業は、非常に気持ちがいい。
だからやめられない。
中毒だ。

 

口は災いの元、という言葉があるけれど

人は言葉に傷つけられるのと同じくらい、

人は言葉に救われているはずだ。

 

この場合の人とは、他人ばかりではなくて、自分自身も含まれる。

少しでも言葉を詰まらせてしまったとき、

言葉が渋滞を起こして、溢れる感情に名前をつけることもできなくて、

私は今日も空虚な場所で嘆いている。

 

言葉が活発に動く場所が好きだ。

映画のスクリーン、小説の世界、楽器の奏でる音、それらに混じって、

今日も誰かが傷つく傍で、きっと誰かが救われている。

言葉を綴る意味

真実に近づくという事は、太陽に近付く行為と同義語だと思う。

太陽に近付きすぎると羽がもげるという神話と同じように、例えばサスペンスドラマにあるように、真実に近すぎた刑事が殺されるのとおんなじで、それは危険を伴うものなのかもしれない。

それでも、言葉を綴るという事は真実を探るということで、私達は呼吸をするのと同じように、もはややめることもできない。

どんなに苦しくても、どんなに酷な事が待ち受けていても、時には歯を食いしばりながら、ひたすら文字を追って、言葉を綴って、感情を吐き出して、また今日も真実を見つけるのだ。

選択するということ。

命について考える。
昨今の騒動の中で、命は決して平等ではないと改めて知る。

 

医療が機能しなくなった時、人は命の選別を行う事は歴史が証明済みだ。
人の致死率は百パーセントだ。
死なない人間はいない。
私は、命の選別をされる側になった時を想像する。

 

そのような状況に陥った時、パニック映画さながら、恐怖感に支配された人間は鋭い牙を向け始めるだろう。
それぞれの正義感をもって、生き残る事に必死だろう。

 

昔の名作映画のタイタニックを見た時、まだ幼かった私は、生き残ろうとする主人公二人について疑問が生じた。
「なぜそこまでして生き残りたいと思うのだろうか」
思えば私は想像力の足りない子供だった。
それと同時に、生きる事に対して執着のない子供でもあった。

 

私は自分の未来について考える。
私には守るべき存在もない。家族も作っていないし、人生を共にするようなパートナーもいない。

 

自由とは孤独なのだと思っていた。
だけど、孤独とは決して悲観視するものではない。孤独によって得られるものもきっとあった。

 

自ら選んだ自由の代償は、命の選別が行われる状況に陥った時に、選ばれなくなる事なのかもしれないと思う。あくまで個人的に。
その時、私は、もう大丈夫だよ、と笑いたい。
必要とされる命が救われるべきだ。
人を守れる命が救われるべきだ。

 

それが明日なのか五十年後なのか知らない。
だけど、私は笑って死を選べる人間になりたい。
守れる者を持つ勇敢な命を、守れるように。